前にツイッター上で「作家の扱う”笑い”で力量が分かる」というようなことを書きました。
これは「笑い」の中に喜怒哀楽の呼吸が詰まっているからで、笑いを追求していくということは、喜怒哀楽の呼吸に迫っていくこと、という私の考えによるものです。
「笑い」は”普通”から離れたところにあります。
一流の芸人と言われるような人たちは”普通”というものを的確に捉えています。
普通をしっかり捉えているからこそ、そこから離れた面白さに目を向けることが出来るのです。
ですから、一流の芸人は決して変人ではありません。普通の人なのです。
一見、変人に見えても、それは普通を捉えてた上で自分の意志で逸れているのであって、それは変人ではありません。
もし、本当に変人であるのなら、それはよほどのことがない限り天然であって、それは一流とは言えないと思います。
なんだか、横道にそれてきました汗
この辺のことについて書き出すと長くなりますので、本題へ入りましょう笑
私は「落語家の顔」に関心がありました。
私は、落語に詳しいわけでも、また、人相に詳しいわけでもありませんが、前々から落語家の顔は「画になるなぁ」と思っていたのです。
有名な方で名前を挙げるなら、志ん生、圓生、歌丸、枝雀、小三治あたりでしょうか。
他にも落語家には、画になる顔つきが多いように思います。
やはり、こういう顔つきになるのは、喜怒哀楽の呼吸を追求するからだと思うのです。
喜び、怒り、悲しみ、笑い、泣き・・・と様々な感情があり、しかも各々の感情の表現の仕方も様々です。
”呼吸”を管理する「厳しい姿勢」をもって、喜怒哀楽を追求する。
これが落語家を「画になる顔」にしているのだろうと、つまらない顔をした私は思うのです。
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