最近はアレですね、寒いです。
別に自慢するわけではないのですが、私の体脂肪率は8パーセントくらいでして、それが手伝ってか余計に寒く感じるようです。。。
まわりの人達が「ちょうど良い」という温度で、明らかに寒いのです。。。
外に出るのが億劫ですわね、まったく。
近頃は、カップ麺にハマっておりまして、、身体にはあまりよくないと思いつつも、身体によくないものほど美味しく感じるようにできているのは、皆さまもご存じのとおりでしょう笑
それはそうと、カップ麺にお湯を注ぎ3分間を待っている時のこと。
席について特に何もすることも無かった私は、目の前のカップ麺をぼけーっと眺めていると、ふと頭が回転し始めたのである・・・
3分
3分
3分
そう言えば、なぜ3分なのだろうか?
ウルトラマンも3分
3分クッキング
カップラーメンも3分
なぜ3分なのだろうか?
なぜ5分ではないのだろうか?
よくよく考えてみるとおかしくはないだろうか?
3分とは、時間においてはキリがいいわけではない。
時間であれば、5分間隔が適切ではないだろうか?
しかし、我々は小さい頃からウルトラマンの3分があり、3分クッキングがあり、なにより我々の身体に染みついているカップラーメンの3分がある。
いつの日からか「3分」という言葉の中に「短時間」、「お手軽」といった意味が込められるようになっているではないか。
改めて考えてみると、3分というのは不思議な時間のような気もしてくる。
3分
3分
カップ麺の3分・・・
我々日本人は、40年に渡る3分の教育を受けてきた。
4,5分を必要とするカップ麺も存在しているが、40年に渡る3分の教育を受けてきた我々日本人にとって、4、5分は「長時間」であり「ひと手間」掛かるものとなってしまった。
新しく市場に出てくるカップ麺のニューフェイスたちが、
「いや、オレの売りは、従来のカップ麺にはないシコシコ麺だ!」とか。
「いや、私の売りは、あの名店の味を忠実に再現したスープよ!」とか。
「いやいや、朕は従来のお粗末なカヤクなどではなく、本物の具材、とりわけチャーシューが売りなのである」とか。
なんにせよ、彼らがハイクオリティをうたって4、5分を要求したとしても、我々日本人に植え付けられた40年の3分の概念を覆すのは難しいであろう。
いくらハイクオリティをうたっても、カップ麺はカップ麺だ。
40年の3分が、カップ麺を「短時間」、「お手軽」と定義づけしてしまったのだ。
300円、400円を出してまでハイクオリティのカップ麺を買うくらいなら、お店のラーメンを食べようと思うのではなかろうか。
というより、ハイクオリティではダメなのだ。お店に近づけようとしてはダメなのだ。
お店のラーメンとカップ麺は別物なのだ。
話を3分にもどそう。
しかし、なんとまぁ不思議な3分だ。
40年に渡り培ってきた3分だ、それなりの理由があるのかもしれない。
それは、武道での型と同じなのかもしれない。
乾麺の達人たちが汗水流して導き出した、無駄のない洗練された3分だからこそ、こうして今に至るまでその伝統が続いているのだろう。
そんなことに思いを馳せながら、感慨深く、敬意を抱き、私は伸びてしまったカップ麺をすするのであった。
いやいや。そんなことよりも、これを書くのに2時間かかってしまったことは非常に恐ろしいことである。
3分に思いを馳せた2時間。
あぁ、いやいや。
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